2009年07月17日

三沢光晴さん 永遠に

 先月試合中に亡くなられたプロレスリング・ノアの三沢光晴さんにすごい思い入れを持っていた。 全日本プロレスにデビューして2年目か3年目くらいで「二代目タイガーマスク」を襲名した。 このときもジュニアヘビー級だったはずだが、華麗に活躍していた。

 である試合中、確かタッグマッチだったと思うが、自らマスクを外して、そのときから「三沢光晴」としてリングに上がるようになった。 そこからヘビー級となって、それまでのスピード感ある華麗なプロレスに三沢選手の代名詞ともなったエルボーなどのパワー系の技が増えてきたので、一気に人気・実力ともにスターダムにのし上がった。 兄貴分とも言えるジャンボ鶴田越えを果たした。

 全日本プロレスの創設者であるジャイアント馬場さんが新潟県三条市の出身であったことから、他の地方よりは試合を見れる環境は整っていたと思う。

 そして何より親分肌で気遣いが素晴らしかったようだ。 週刊プロレスの増刊号で見たのだが、ある選手が休暇のために1週間旅行をした。 そうしたらホテルの部屋に入るなり、大きなお花が飾ってあった。 「気が利くホテルだなぁ」とその選手が花に近づいたら、三沢選手の「家族と水入らずゆっくりリフレッシュしてください」(文言は正確ではない)というようなコメントが入っていて、ビックリしたそうだ。 それ以降もずっとそうだったようだ。

 そういうところもジャイアント馬場さんもしっかり見ていて、裏方の仕事も三沢選手に任せていたし、晩年はマッチメイクは全面的に任せていたようだ。

 ただジャイアント馬場さんの死後、次第にオーナーである馬場夫人と意見が合わなくなり、さらにプロレスがレスリングでなくなっていたことに対する危惧から、独立を決意してプロレスリング・ノアを設立した。 ちょうど全日本の試合自体は盛り上がっているのだが、どんどんコアなファンが増えてきて、新規ファンには敷居が高くなっていた。 それを打破したい思いもあったようだ。

 ちょうどそのころK-1や総合格闘技が台頭してきて、運の悪いことに高田延彦がヒクソン・グレーシーに完敗したことから「プロレスラーは弱い」と格闘技ファンの間でレッテルが貼られ、プロレス人気自体が低迷してきた。

 そこでノアを設立した三沢光晴さんは異種格闘技で戦った高田延彦やアントニオ猪木はアマレス経験がない、あるいはプロになってからレスリングの基本を教えられてないから、そういった基本のできる「レスリングができるプロレスラー」三沢選手からすると「非レスリング」系のプロレスラーとの区分けをしたかったようだ。 「レスリングのできるプロレス」それこそが真のプロレスであるとノアでは伝えたかったようだ。

 そこからも日本テレビの中継が地上波でも日曜深夜というマニアックな枠に組み込まれたり、さらに数年前には地上波放映もなくなった。

 そのプロレス自体の地盤沈下を危惧して、他団体とも交流し、近年はそういった他団体と「グローバル・レスリング連盟」を結成し初代会長に就任、プロレスの人気向上、安全確保に尽力していた。

 しかし三沢さん自身の身体もあちこちに怪我を抱え、とても試合を続けられるような身体ではなかったようだ。 その上にリング外のストレスも重なっていた。 それでも来てくれるファンのためにリングに上がり続けた。

 でもいくらなんでも46歳は早すぎる。

 しかし三沢光晴 追悼 | ありし日の映像はこのDVD-BOXでによれば9月にDVD-BOXが出るようだ。 全日本時代の映像もあるらしい。

 三沢光晴選手は永遠に記憶にとどめておきたい選手だった…

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